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「私はアイドル」はヒップホップだ : 雑記 : velocity *blog

Δです。

左京先生は偉大です。ただの眼鏡好きのド変態ではありません。
なんと自サイトもろくに更新していなのに、べろシティの
トップページを更新してくれました。感謝(驚)。

店舗委託の情報(おそらく6月下旬になると思うけど……)が追加されてます。

なにやら「空前の名盤」と書いてあるようにも見えますが、
自分の目にはぼやけてよく見えません。え? なんで自画自賛してんの?

自画自賛なんてこと、謙虚な自分がするわけないじゃないか常考。


自画自賛。


これが今回のテーマです。

ヒップホップでは「ラップで自画自賛をする」というのが
義務付けられていて、本当に自分に自信があるかないかは関係なく、
必ず「俺は一番すごい」といわなくてはなりません。

これは俳句に季語をいれなくてはいけないのと同じような
一種のルールです。そこにある種の閉塞感をおぼえる人も
いることでしょう。

ただこのルールは、相応の価値があるためにルールとして
定着しているのです。

ラッパーが尊大な態度で「俺は一番すごい」というとき、
その過剰な自意識があふれ出している様に、確かな魅力を
感じないでしょうか。必死に自分を鼓舞し、「俺は強い、俺はできる」と
自ら言い聞かせている姿に、なにか愛らしさを覚えないでしょうか。

思えばそれは、自分がヒップホップを好きになったきっかけ
だったかもしれません。

そこで『THE IDOLM@STER』(アイドルマスター、以下アイマス)です。
実はこの自画自賛というやつは、自分がアイマスを好きになった
きっかけでもあるのです。

-- ◇ 「私はアイドル」はヒップホップだ の続き --

昔話をしましょう。

自分はアーケード版の頃より、アイマスにはまっているちゅをみて
キモイと思っていました。ニコニコでアイマスが流行ってるのをみてもキモイと
思っていました。「GO MY WAY」「団結」はいいけど、それは曲がいいだけで、
プロジェクトとしては断固キモイ、キモ過ぎて反吐がでると思っていました。

現実にはいないヴァーチャルアイドルに向かって「結婚してくれ」だのなんだの、
キモオタ病状の極みだと思っていました。たしかに振り付けはかわいいし、
ロリトリオの姿にはそこはかとなく性的興奮をおぼえはするけれども、
それはあくまで一時の気の迷いであり、基本的にはキモさ100%の娯楽作品だ。
芸術作品としての魅力は微塵もない。即刻唾棄すべきである。

そう思ってきました。思い続けていました。思い込ませていました。


しかし、打ち砕かれました。


「私はアイドル」という名曲に出会った瞬間、そのような観念が霧消して、
自分の中にあったアイマスへの固定観念は取り除かれ、価値観がものの見事に
反転してしまいました。

この曲を聴いた途端、たちまち自分の全身が輝きだし、深い恍惚感と
圧倒的な万能感に包まれ、辺りにうっすらとした靄がかかり、空からは
幼女の姿をした天使が微笑みをたたえながら舞い降りてくるような桃色の
錯覚に見舞われました。これはなんたる僥倖でしょう。


わかりますか?


つまりここで俺がいいたいのは、アイマスの中で「私はアイドル」が
ずば抜けて重要な曲であること! ヒップホップの世界でいうクラシック
であること! その一点のみです。

それさえ認めてくれればいいのですが、アイマスが好きだという人でさえ
なかなかこの意見をわかっていただけないようです。そこで今回、いい加減
しびれを切らした自分は、このような解説をはじめることにしました。

なので、これまでこの曲の魅力に気づかなかった自分に恥じ入りながら、
心して読んでください。そしてひれ伏してください。

自分が思うに、「私はアイドル」のもつ魅力は、曲(トラック)にではなく
詞(リリック)にあります。権利問題を意識して長文を引用することは
控えますが、とにかく最初から最後まで詞に注目しながら通し聴きしてください。





↑の2つはアレンジが違いますが、その楽曲の意義には違いはありません。

一聴しただけで、「ヴァーチャルなアイドルがリアルなアイドルの気持ちを歌う」
という入り組んだ構造をもっていることに気づかれるでしょう。歌詞自体には
皮肉はこもってませんが、その構造上、アイロニーが不可避的に感得されます。

どういうアイロニーか、細かく書くと。

アイマスのキャラはあくまで声優が演じるキャラに過ぎず、架空の存在です。
一方で、現実の世界には現実のアイドルたちがいます。

しかし現実のアイドルは、現実の存在であるにもかかわらず、
「アイドルはうんこしない」というモダンな諺にもある通り、
あたかも架空の存在であるかのように振る舞います。

巷のアイドルの歌詞はほとんどすべて一人称で書かれていますが、
そこで主体となっている「私」は「アイドルの私」ではなく
「どこにでもいる少女の私」です。つまり現実のアイドルは、
歌でアイドルの気持ちを代弁(レペゼン)していない
わけです。

この倒錯を、キレイにひっくり返してみたのがこの曲です。

現実のアイドルが架空を装うのを反転させて、この曲では
架空のアイドルが現実を装っています。キャラたちが現実の
アイドルをレペゼンしているのです。これがアイロニーでなければ
何なのでしょうか。

しかも、このとき用いられている方法論が、そうです、あの自画自賛なのです。

「だって私が一番」と高らかに歌い上げ、「あなたもそこそこ」だけど
私が相手では「分が悪い」と一方的な勝利宣言。これをヒップホップと
いわずして何がヒップホップなんでしょう。

スポットライトを浴びてない瞬間も、彼女らは白鳥並かそれ以上の努力を
しているというのに、その「私のもつ魅力に気づいていない」人に、
日々苛立ちをつのらせています。

そして曲の中盤以降では、彼女らは「がまんしてるのもう限界まできている」と、
もてあました自意識をついに爆発させ、「この私無視するその度胸は何様なの」と
リスナーたち(未来のファン)に説教をかまします。

ここでは自画自賛というヒップホップのコードの魅力がふんだんに
用いられ、さらにそれに留まらず、普段は隠されている弱気に
なりそうな自らの真実の姿を垣間見せています。

自分はここで、かつてヤマグチノボルが必死になって伝えようとしていた、
「ツンデレ」という概念がもっていた本来の魅力を思い起こさずには
いられません。

この曲のもつ、「強気」で自画自賛や罵倒する姿に内面の「弱気」
「焦燥」が垣間見られるという構図。これは、「嫌い」と連呼する姿に
内面の「好き」が垣間見られる「ツンデレ」と相似形を成しているのです。

おそらくこの曲を聴き終えた後、「未来のファン」だったはずの
リスナーたちは、「現在のファン」へと変わっているに違いありません。

なにせここまで計算しつくされた歌詞。素直に脱帽するしかないでしょう。

……と。

ここで不意に我に返って。



こんな長文かける俺キメェ。



と、自分にも脱帽してしました。


BGM: mum「Finally We Are No One」
(mumの萌え路線はエレクトロニカリスナーの性的な偏向を示していると思う)
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